日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りする和泉の国一宮・勝運、商売繁盛、交通安全、初宮(お宮参り)に

大鳥大社について

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由緒沿革

当社は延長5年(西暦927年)に完成した延喜式神名帳所載の、霊験特に著しいと言われる名神大社であり、和泉国の一ノ宮であります。

歴代皇室のご尊崇きわめて篤く、殊に国家的災難時に神祇官から指定された防災雨祈の御祈願社は85社ありその一つですので途切れることなく臨時の奉幣に預かりました。
又、ご神階も清和天皇貞観三年七月には従三位に叙せられ、のち正一位にご昇階になりました。

【防災雨祈の御祈願社】

奈良、平安時代は農作物の出来不出来が直接国の税収を左右し政治の根幹に関わる重要な関心事でした。
よって日照りが続くと雨乞いをし、雨が続くと止雨の祈祷をしたのです。
又、大きな災い(地震、疫病、災害等)が起きたり、不吉な事が続いたりすると神社に祈祷をしてもらいました。
そのような天地を鎮める祈祷ができる霊験著しい神社が国により85社定められていました。

御祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)

ご祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)は日本書紀や古事記に登場する伝説の人物で第十二代景行天皇の第二皇子です。

その武勇は広く知られていますが、古事記、日本書紀によるとヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲(くまそ)を平定し、帰途も従わぬ者たちを征伐しながら出雲の国をも平定しました。

そして、宮へ帰ると休む間もなく東国の平定を命ぜられたので直ぐに赴き、様々な災難に遭いながら何とか帰途つきます。
その途中に伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りに遭い病となってしまいました。
病身のまま大和を目指したのですが、都にたどり着くことができず伊勢国能褒野(のぼの)にて身罷りました。
そこに陵を造り皆が嘆き悲しんでいると、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったのです。
最初に舞い降りたのは大和の琴弾原(ことひきのはら)、再び舞い上がり次に降り立ったのが河内国の古市、その後は社伝によると再び天空高く舞い上がり当所に降り立ちました。
そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源であり今から約1900年前の話であります。

神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。

大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ)

もう一柱のご祭神である大鳥連祖神は、此の和泉国に栄えた神別である大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」には天児屋根命(あめのことやねのみこと)を祖先とすると伝えられています。

このように、ご祭神の神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬篤く平清盛、重盛父子が熊野参詣の途次当社に祈願し和歌、名馬を奉納したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度に亘って奉仕しています。

また、聖武天皇の御代には僧行基が勅願によりこの地に神宮寺として神鳳寺を建立したが、明治維新の神仏分離令によって廃寺となりました。

社殿

本殿は大鳥造と言い、神社建築史上一種の様式を保っており、構造は出雲の大社造に酷似して、切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ形式を今日に伝えています。
つまり大社造と似ているのは、切妻造、妻入りで正面、側面共二間である点で相違点の大きなところは、大鳥造では入り口は正面中央にあるので中央の柱はなく、側面裏への縁が無く、内部は前後の二室に分かれており、心の御柱がなく、高床も低い事などであります。

社殿は天正年間(1573年~1592年)の兵乱によって炎上し、慶長七年(1602年)豊臣秀頼によって再興されましたが、更に寛文二年(1662年)には徳川家綱の命により堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年(1902年)には特別保護建造物(現在の重要文化財)に指定されましたが、同三十八年八月雷火の為に炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。

昭和九年国の費用でお屋根替、さらに昭和三十六年ご祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手によって内部の模様替と原型解体に近い大修理が行われました。

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